香川の昔の米づくり:借耕牛の紙芝居
今日のテーマは、地域の昔の米作り。
借耕牛のお話。
地域に住む とみたきくこさん が先生。
昨年もお招きしてお聴きした話ですが、
何度聴いても揺さぶられます。
絵も とみたきくこさん。
・江戸時代から昭和45年まで、田植えの季節になると、阿讃山脈を越えて、阿波から讃岐に牛がやってきていた。太田地区にも。
・塩江の向こうの相栗峠は、牛の行列。多いときは8500頭。全国有数の規模。日は、6月4日。満濃の池から水が来るまでに田を耕す。帰りは7月4日。
・貸し出す方は、食べるため(籾がもらえる)
借りる方は、農仕事のため。博労が仲介することが多いが、直接契約も。
基本、一軒一頭。
・牛が来てくれた讃岐平野は、大喜び。
・12歳の子どもでも、牛を上手に使う。
・行燈で照らしながら、夜も耕す。
・讃岐の農家は、牛が死ぬほど使うと有名だった。
・牛は、がりがりに痩せて帰っていく。
・峠で力尽きて歩けなくなった牛は、首を切られて、崖から落とす。細い山道でうずくまっては、後ろの行列が通れない。止むなし。いまでも地図にある首切峠とは、そのこと。
・約250年にわたり、借耕牛は讃岐の農業を支え、讃岐の米は、日本一だと言われた。